2026/6/7 聖日礼拝 メッセージ No.983


聖書箇所《マルコの福音書11:15-18》(新改訳:2版 新p82・3版新p89 2017版新p91)

◎参考記事《マタイの福音書21:12-13》《ルカの福音書19:45-46》《ヨハネの福音書2:12-17》

今回のメッセージはイエスさまがなんと神殿の中で暴れられたという話です。今だったらネットニュースに必ず載るでしょうね(笑)「イエス暴れる 神殿の中 ムチを振り回す」とか書かれると思うんです。一面にも載るかもしれません(笑)。

●何故、イエスは神殿でこのようなことをされたのか。
1.「わたしの家」

ヨハネの福音書には「わたし父の家」ですが、このマルコやマタイ、ルカの福音書は「わたしの家は」とあります。「わたしの家」と「父の家」はイコールなんでしょうか?イコールなんですよね。『わたしと父とは一つです。』《ヨハネ10:30》常にイエスさまは父なる神様のみこころだけを行われ、それ以外のことは行われなかったわけです。ですから、父と私はひとつ。つまり「父なる神の家」はイエスさまにとって「わたしの家」だったわけです。
たとえ話ですが、皆さんどうでしょう?あなたが家に帰ります。「あ〜、仕事疲れた。」と言って玄関を開けると、なんと家の中にたくさんの人が居ます。ある人は牛を連れ、ある人は羊を連れています。あなたが家の中に入ると、「この牛安くしときますよ!いりませんか?」「この羊状態がいいですよ!買ってください。」とか、…そんなこと起こりうる訳ないんですけども、家の中でそんなことされたら当然、一も二もなくあなたは、その人たちを追い出すわけですよね。あるいは警察に通報するかもしれません。理由なく追い出すことができるわけです。ではイエスさまの立場からしたらどうでしょう?イエスさまは正に神から遣わされた神の子です。神様です。「わたしの家」である「神殿」でそんな事をして誰も怒らない人はいないはずです。イエスさまが怒ったことは当然のことです。なぜならイエスさまの家だからです。彼らは神の家である神殿に無断でしかも土足で入り込み、自分たちのために商売し、金もうけをしていたからです。

2.「いけにえ」に対するいのちの尊さ

いけにえの売買が行われていたということ。当時、礼拝にはいけにえが必要でした。しかし17節を見ると『あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。』あるいはヨハネの福音書2章16説を見ると『私の父の家を、商売の家としてはならない。』とあります。「強盗の巣」とか「商売の家」にあなたがたはしたと書いてあるように、たとえ実際に商売とまでいわずとも「取引」があったわけです。当時はいけにえの動物を購入する、あるいは用意する必要があったからです。

*本来、いけにえの動物はなぜ必要なのか?

神の「罪の赦し」「贖い」に「血を注ぎ出す」ことが不可欠だったからです。もちろんその後イエスさまが十字架にかかられて、本当に私たちの贖いのため、罪の赦しのために、血を流してくださったその血というのは永遠の贖いのために流された血ですから今も適用されるので、私たちは毎年毎年イエスさまを十字架にかけなくても良いわけですけども、イエスさまが来られる前は毎年動物のいけにえをほふって神様に差し出していました。『それで律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』《ヘブル9:22》旧約では、イエスさまが来られるまでは、いけにえを捧げなければならなかった。動物を捧げることにより、その血を差し出すことにより人は罪の赦し、贖いを得ていたわけです。でも、イエス様の時代になったら、これがビジネスになっていたわけです。本来はこれより一千年前、ダビデの時代からささげものはあったわけですけど、元々多くのイスラエルの人達は捧げるために自分たちで家畜を飼っていたわけです。過越のいけにえでも、たとえば10日の日に羊を用意すると、14日まで5日間見守ると書いてあります。その羊と5日間一緒にいたらどうでしょう?たとえ、羊であっても自分の家族のように愛着をもつわけです。つまり愛着を持ったころにその羊をささげて、ほふらなければならない。つまりそこにいのちの尊さを私たちが感じることになるわけです。自分の家畜をいけにえに捧げるということは自分たちが大切にしていた動物をささげなければならないという、いのちの尊さをおもんばかるようにされたのがいけにえです。それが千年ほど経ってイエスさまの時代になると形式化、ビジネス化してしまった訳です。つまり自分たちが用意しなくてもエルサレムまで行ってある程度お金を払ったら、そこで動物を手に入れられるわけです。ただお金を払っていけにえさえ買ってささげれば神様に祈りが聞き入れられるという、そこにはいのちの尊さとか、なぜ動物をほふらなければならないのか、その動物のいのちを捧げまでして、神様は私たちの罪をあがなって下さるという本来の尊い目的が見失われていったのです。商売になることによって本来いけにえの動物をささげることが自分たちにとって身近なもののいのちが捧げられることだという自覚、重みが時代とともに薄くなっていったのです。「その場で買えばいい。その場で買った動物をささげたらそれで神様は受け入れてくださる。」ということになるからです。ユダヤ人たちはいけにえの動物を商売にし始めていたということです。実際に「強盗の巣」というのは聖書のみことば『わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。―主の御告げ。―』《エレミヤ7:11》神様が言われてたこの言葉をイエスさまは引用されたわけです。これは今日の私たちも、ともすれば毎週毎週礼拝を捧げて、毎週毎週イエスさまのことを思い起こすのですが、私たちは、イエスさまが私たちのいのちを贖うために、自分の命を捧げて自分のたくさんの血を流されて、そこまでして私たちを贖ってくださったということを本当は私たちは思い起こさないといけないわけです。動物の血というものであっても、それがいのちの尊さを思いもせず、捧げる礼拝であるならばそれは神様にとって喜ばれるものとなるでしょうか。
今日、私たちクリスチャンも自分たちの「救い」「贖い」のために、代価を払って下さったお方のされたことと、その愛をどれほど、いつも思い起こすことが出来るかが、大切です。

3.「祈りの家」を「強盗の巣」にしていたユダヤ人たち

私たちにとって神の家である神殿は祈りの家であるべきです。そこを決して「取引(=商売・ビジネス)」の場にしてはならないのです。取引とは何かと言うと、「お金で買えばそれで何とかなる。」「お金でいけにえを買えば受け入れられる。」という考えです。あるいは商売人からすれば、神様の神殿で「自分たちは神のためにやっている」かのような商売をしているわけです。神様の祈りの場でそういうことをやってるということは本来はあってはならないのです。当時彼らは場所を取って、そこで得たお金を何パーセントかを祭司・指導者たちにマージンとして渡していたと言われています。場所代だけでも場所によって全然違うと言われ、全部それは私腹を肥やす指導者たちのお金になっていたわけです。結局全部「マネー」だったわけです。私たちの祈る祈りも取引であってはなりません。どういう祈りが取引か?というと、どうでしょうか?「神様!○○しますから○○してください!」「神様!もしあなたが○○してくださるならば、私は○○します。」実はこれは祈りじゃないんです、取引なんです。神様に交渉するなんて、もってのほかです。でもそれと同じことを彼らはしていたんです。お金さえ払えば、いけにえは調達できる。いけにえをささげればそれで神様に祈りは聞かれる。だんだん礼拝は形式的になったわけです。だからイエスさまが来てこれを全部ひっくり返されたわけです。まさにひっくり返されたのはそれが全部意味の無いこと、「ホンモノの礼拝ではないこと」だとイエスさまは身をもって示されたことをあらわされているのです。私たちも同じく気をつけなければなりません。神の祈りというのは、神との取引、損得になってはならないということです。

アメイジングラブチャーチ 牧師 伊達弘幸